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これまでのプログラミングの変遷を振り返り、2020年代以降の展開を考えるため、Ruby創始者・まつもとゆきひろさんにIT WORKS@島根 初の単独インタビューを実施しました。
今回は、第②「地方のこれから、ITエンジニアのこれから」。
――今、島根県に住んでいるまつもとさんですが、地方暮らしに興味があったんですか。そもそも都心があまり好きではなかったとか?
まつもと そうですね。都会よりも地方の方が好きですね。大学は筑波大学(茨城県つくば市)だったので、関東ではあるものの都心ではありませんでした。当時はまだ、「つくばエクスプレス」(東京・秋葉原と茨城県つくば市を結ぶ鉄道)もなかったんです。つくばは陸の孤島のような感じでしたが、それが私にとっては居心地がよかったですね。たまに東京にも行ってましたが、やっぱりどこか居心地が悪くて。
――今でこそ「ITエンジニアはどこでも働ける」といった環境が整い、「ITWORKS@島根」のようなサービスもありますが、当時は地方でITの仕事を探すことは大変だったのでしょうか?
まつもと 大変でしたね。大学時代の知人は茨城から都心まで通勤する人もかなりいましたが、片道2時間、往復4時間くらいかかるわけです。移動でそんなに時間を使うのは私にとっては現実的ではなかったし、かといって都心に住むにしても、将来家族を持つことを考えたりすると、自分の望む生活は都心では送れないなと思いました。就職先は東京で働かなくてもいい会社を中心に探し、最初に就職したのが本社は東京、開発拠点は静岡県浜松市にある会社です。浜松で働き、2番目の会社が名古屋、3番目がここ松江ということになります。
――そして、その浜松の会社で働いている時にRubyをつくり始めたわけですね?
まつもと そうです。その会社は社員2000人ほどの中堅のソフトウェア開発会社だったんですが、バブル景気の最中で年間200人も採用する大胆な採用計画を立てていました。しかも、「経験は問いません」という採用方針だったので、ほとんどの人がプログラミング経験がないんですよ。プログラミング経験がある人は、私を含めて6人しかいませんでした。
――200人中、6人ですか?
まつもと 私を含むその6人は1カ月間の研修の後、現場に放り込まれたんですが、そこが社内ツールの開発チームだったんです。新人でも、「このツールは全部あなたが担当ね」といった感じで、すぐに設計から仕事を任されました。
社内ツールなので自由度も高く、「こうあるべきだ」ということを自分で考えて決められるんです。最初の2年間は、そんな恵まれた開発環境で仕事をしていました。ただ、社内ツールは売上が立たないじゃないですか。バブルが崩壊して会社の業績が悪くなってきたので、そのチームは解散することになりました。
その後、私はなぜかメンテナンス要員として残されたんです。でも、新規開発はできないので正直暇でした。たっぷり時間があったので、「何かつくるか」と思って始めたのがRubyです。
――そういう経緯でRubyが生まれたんですね。ただ、原型を構想したのは高校生の頃ですよね?
まつもと プログラミング言語をつくりたい思いはずっとあったんですが、高校生の頃はまったくスキルがありませんでした。大学に行ってから一通り勉強し、就職後に経験と技術を積んだので、そこでやっと「本気でやればできる」と思えるところまできたんです。
――その頃は、エンジニアとしてのご自身の将来をどう描かれていたのでしょう?
まつもと あまり先のことは考えていませんでしたね。この業界は、既存のスタンダードがひっくり返るようなイノベーションがたまに起きるんですよね。例えば1990年代前半は、ネット上で提供されているハイパーテキストシステム「ワールド・ワイド・ウェブ」(WWW)は一般的ではありませんでしたが、今はそれなくして世界は成立しないような状況になっています。
もちろん一定の連続性があるので、それ以前の経験がまったく生かせないわけではないんですが、それでも今の技術の延長線上でこの先10年も進もうなんて考えてもしょうがないんです。その時々の瞬間的な判断で生きているので、先のことはむしろあまり考えないようにしています。
――まつもとさんは1997年に島根に移住してきて、もう20年以上経ちますね。島根の住み心地はいかがですか。
20年以上も住み続けている理由の1つは、松江市の街のサイズが私にはちょうどいいんだと思います。通勤は車で20分弱ですから、まず通勤の苦痛がありません。それでいて、人口20万人都市なので学校や病院などの社会インフラも十分に揃っています。さらに、松江は観光都市でもあります。他の地域の人たちが、わざわざやって来て楽しむ観光のコンテンツを、移動せずにその場で楽しむことができる。そういうメリットもありますね。
それと、子育て環境のよさも魅力です。島根に来たときは一番上の子どもが幼稚園児だったんですが、待機児童の問題とは無縁でした。今子どもは4人いて、全員が“島根っ子”です。子どもたちは「島根から出たくない」と口を揃えて言っていました。
――家族を持つ人にとって、子育て環境はとても大事ですよね。
まつもと 独身だったら「どこでも構わない」と思う人もいるでしょうが、家族がいる場合は家族みんなにとっていい場所、いい環境であることは重要ですよね。島根には隠岐諸島もあって海が満喫できるし、山間地の緑も豊かです。自然に触れることが好きな人にとっては、いい選択肢だと思います。さきほど言ったように、松江とかであれば、学校や病院などの社会インフラも一通り揃っているので、不便を感じることもないですしね。
――まつもとさんが個人的に好きな島根のおすすめスポットはありますか?
まつもと 私はよく温泉に入りに行きますね。今住んでいる場所が玉造温泉に近いので、歩いて温泉に行けるんですよ。リラックスできていいですよ。
――地方移住を希望するITエンジニアの相談を受けていると、東京にいないと最新の情報や知識が入ってこないのではないか。そういう不安の声を聞くことが多くあります。その点は、どう思われますか?
まつもと それは、人によりますね。人と会うことでモチベーションを上げ、学んでいく人は確かにいます。そういう人にとっては、毎晩のように勉強会がある都心の方が合っていると思います。
一方で、人に会ったり、勉強会に参加してもあまり変わらない。そう考えている人も少なくありません。今はインターネット上で新しい情報をどんどん取り込めるので、人とのコミュニケーションがなくても十分学べて、成長できるというスタンスの人ですね。
そもそも、地方にまったく勉強会やコミュニティがないわけではありませんからね。松江にも、企業や技術者が集まって運営している「しまねOSS(オープン・ソース・ソフトウェア)協議会」があります。そこでのサロンや勉強会を通じて、人脈を広げたり技術を学べたりします。
働き方が多様化し、エンジニアも場所を問わず働ける時代です。「どこにでも住める」というのは、必ずしも「地方に住む」という選択を指すわけではなく、「自分に適した場所に住める」ということだと思うんです。地方のメリットが都会より大きいと考える人は、地方に住むことをオススメします。
――今、20代で島根に移り住むエンジニアもいます。今後、生涯プログラミングで仕事を続けようと思ったときに、意識しておくべきことはありますか?
まつもと この業界はスタンダードがひっくり返ることがあるので、「これをやっておけばいい」というのは正直難しいですね。Rubyに限らず、JavaやJavaScriptもまだ生まれて20数年ですから、これから20年後も生き残っているかどうかすらわからないですからね。
ただ、人間の根本的な部分は変わらないので、その変わらないことを意識するのは大切かもしれません。そういう意味では、プログラミングと違う軸を持ちながらも、それと何かを組み合わせること。それができると強いと思います。自分のスキルや知識を特定の分野だけに絞ってしまうと、寿命が短くなりがちなんですよね。
例えば、マネジメントのスキル。プログラミングのことをよく知っていて、かつマネジメントもできる。状況によって現場のプログラマから、プロジェクトマネージャーに変わっていく。そういう考え方は1つあるでしょう。
あるいは、「プログラミング × 別の専門性」といったように、「農業の知識がある」「教育に知見がある」などと特定のジャンルを組み合わせることで、将来の生存確率を上げる方法もあるのではないかと思います。
ほかにも、例えばユーザーインターフェースを追求するための技法に優れているとか、どういう操作をすると人間にとって気持ちがいいかを知っているとか。そういうプラスαの何かがあるといいでしょう。
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